目を細めると、今も白い雪山が見える――。米国注目のロシア系移民作家が描く、切なくも美しい9篇の物語。同じ飛行機に乗りあわせたサッカー選手からのデートの誘い。幼少期の親友からの二十年ぶりの連絡。最愛の相手と死別した祖父の思い出話。かつて強制収容所が置かれたロシア北東部の町マガダンで、長くこの土地に暮らす一族と、流れ着いた芸術家や元囚人たちの人生が交差する。米国で脚光を浴びる女性作家による、鮮烈なデビュー短篇集。
Amazon 内容紹介より
短編集。ロシア北東部のマガダンという著者の生まれた町を中心に人々の人生が交わる物語たち。短編集ではあるけれども、各話の登場人物は時間軸を行ったり来たりして色々なところに登場します。訳者あとがきを読んで初めて気がついたのですが、各話の原題部分に舞台の西暦が書かれています。個人的にはこの時系列で並んでいないところが読中に各人物をより強く想像する効果があった気がします[1]時系列で並んでいれば、基本的に想像ではなく読んでいけばいいだけなので。また訳者あとがきにもある通り著者は『ジュンパ・ラヒリ』氏にかなり影響を受けているとのことです。そして日本語訳者は『ジュンパ・ラヒリ』氏のデビュー作である『停電の夜に』と同じ『小川高義』氏です。そういった諸々を抜きにしても読んでいる感覚はかなり『ジュンパ・ラヒリ』氏の作品と近いと感じました。
さて『五月の雪』の著者である『クセニヤ・メルニク』氏は、15歳の時に本作の舞台であるマガダンからアメリカのアラスカ州に家族と一緒に移住したとのことです。本作でも似たような状況のエピソードが書かれています。その移住が年齢的にも著者に与えた影響は計り知れませんよね。著者の謝辞にある「美しくもあり恐ろしくもあるロシアなるもの」「書きたいことを書いて出版する自由のある国に来られた」という部分は2022年現在の情勢をみてしまうと、まさしくその通りだと感じられてしまいます。ちなみに本作の原作初版は2014年。日本語訳初版は2017年。当時であればこのロシア的な閉塞感や故郷への想いみたいなものも少しずつではあっても薄まっていき、いつかは過去のものになるのかも…と日本で読んでいるだけの自分などは思ったでしょうけれども、現状ではむしろそんな未来は当面訪れることはなく、より閉塞感が強まっているだろうことを想像してしまいます。
それにしても本作の題名である『五月の雪』は、訳者あとがきによれば「いくらか雪解けがあったあとで、ふたたび真っ白に浄化されることから、第二のチャンスという意味合い」と書かれていましたが、マガダンの5月の平均気温はWikipediaによると2.2℃。平均最高気温でも5.4℃なので、雪解けどころかまだ普通に雪が降っているのでは?とか思ってしまいました。もちろん日本の気温と降雪の関係とはまた違った状況でしょうけれどもね。マガダンの場所は以下。
ところで本作の中の一編『絶対つかまらない復讐団』のp152で「チャイコフスキー子供フェスティバル」のテレビ収録の最中、このお話の主人公である『ディマ』少年が何回も何回も簡単なはずの演奏で失敗をしてしまいます。その後、ようやく終わった時にプロデューサーが発した一言「よし、カット。ふう、神様、レーニン、チェブラーシカ!」にはどうしても笑ってしまいました。本当にロシアではそんな言い回しがあるのでしょうか…?そして神様とレーニンとチェブラーシカの並びの強さ。舞台設定は1993年。レーニンはスターリンなどに比べ、ロシアにおいては死後もかなり人気の高い指導者という印象ですし、神様と並べるのも割と納得感があるのですけれども、チェブラーシカはなぜ?という感じが否めません。自分がチェブラーシカのことをほとんど知らないからかもしれないですけれども、ロシア人的には結構神格化できるレベルのキャラクターなのでしょうかね…。
また訳者も訳者あとがきで触れていますが、特に『上階の住人』という一編は短編といえども[2]時系列で並んでないとはいえ歴史を重ねている本作における最後を飾るのに相応しいお話だったと思います。登場人物の過去語りを通じて各話を振り返って史実とリンクしつつ、歴史的な重厚感を改めて感じられる構造になっていました。この一編が最後にあることが、この作品全体の読了感のよさを更に引き上げているように思います。
そんな訳で『五月の雪』は『ジュンパ・ラヒリ』氏の『停電の夜に』を若干彷彿とさせるお話でした。繰り返している通り、各話に関連性はあるものの基本的には短編集ですので、かなりサラサラとした読みやすい作品だと思います。2022年9月現在、まだ存在していないようですが、著者『クセニヤ・メルニク』氏の次の作品が気になります。『五月の雪』、かなりオススメです。
コメント