笑われることが大嫌いな不良“やおきん”こと矢追金次郎は、日々買っていた恨みが原因で幼なじみの江崎久里子から笑顔を奪ってしまう。そんな彼女の笑顔を取り戻すため、八方手を尽くしてきたやおきんがドン底から見つけたひとつの希望、それは『大喜利』だった──…。
Amazon内容紹介より
「シオリエクスペリエンス」で音楽・バンドを描いている長田悠幸氏と町田一八氏のコンビ[1]キッドアイラック!では町田氏は構成協力というクレジットになっていますが描いた、大喜利・笑いをテーマにした漫画「キッドアイラック!」です。全3巻で読みやすい長さでした。
さて「キッドアイラック!」です。まず大前提として「大喜利は読むことができる」ということがあります。「シオリエクスペリエンス」での音楽は漫画では当然のように聴くことができません。この違いは本当に大きいです。同じ漫画家さんですから、特に「感動」は似たような表現になりますが、あくまで聴こえない音楽を読者の想像力だけで膨らませてから感動しているシーンを読むのに対して、大喜利はその大喜利自体を読んで読者が自分の評価軸の中で面白いかどうかを感じてから、感動しているシーンを読むという違いによって、その感動シーンが与える印象がここまでも違うものなのか、と思わされました。
人の想像力が無限大、とは言えないと自分は思っていますが、それにしても既存の物に比べれば圧倒的なパワーを持っていると思います。漫画から聴こえてこない音楽であれば、聴いたこともないような素晴らしく最高にカッコ良い音楽を想像するでしょう。しかし、漫画に既に書かれている大喜利では、その大喜利の面白さ以上には感じ取ることができません。もちろん、お笑いの素養があるかどうかで、その大喜利から得る情報量というものは読者ごとに変わってくるとは思いますが、それにしても読者自身が想像する最高に面白いと思う大喜利のインパクトには到底辿り着けないでしょう。これは読者自身が面白い大喜利を思い付けるかどうか、というところにはよりません。
その前提の違いがキッドアイラック!から受ける印象とシオリエクスペリエンスから受ける印象での違いにダイレクトに響いていると思います。端的に言えば、自分としては「キッドアイラック!」の中でキャラクターたちが大ウケしていたほどには、漫画に登場した大喜利たちを面白い、と感じられませんでした。その点が自分にはどうしてもキッドアイラック!の感動シーンにイマイチ入り込めなかった理由だと思います。
また漫画の中の出来事とは言え、明治君に一連のアレコレはさすがに胸クソ悪かったです。理由としても割とそんな程度の理由で…?ということもあり、読んでいてツラくなる部分もありました。江崎さんへ降りかかる問題はもう少し軽くしてあげても良かったのでは…と思ってしまいましたね。江崎さんに降りかかっていた問題が重すぎたゆえに、ラストは感動できます[2]上記に挙げたような注意書きアリな、素直にできない感動ではありますが…。
そんな訳で色々と気になった点ばかりを挙げてしまいましたが、「キッドアイラック!」は基本的には「シオリエクスペリエンス」を彷彿とさせる勢いを感じさせてくれる漫画でした。短くまとまってはいますので、「シオリエクスペリエンス」にハマった方で未読の方は読んでみると楽しめるかと思います。
コメント